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丸墓山古墳
(まるはかやまこふん) |
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丸墓山古墳は、直径105m、日本最大の円墳として有名です。墳丘の高さは埼玉古墳群で最高、まさに山のようです。頂上に立つと、隣に稲荷山古墳、その向こうに将軍山古墳の、復原整備を終えた墳丘がよく見えます。
振り返って北西には、行田の市街地が遠望(えんぼう)されます。下から見上げても、上に上ってもその大きさ、高さが実感されます。
「丸墓山」という名の由来については、「麿墓」(まろはか)が訛って「丸墓」になった、あるいは丸い墳丘からその名が付いたなどの説がありますが、いずれにしても江戸時代の書物に「丸墓山」が登場することから、当時からすでにその名で知られていたことが確認できます。
埋葬施設(まいそうしせつ)は発掘されていないため詳しいことはわかりませんが、出土した埴輪から6世紀前半ころに造られたと推定されています。とすれば、稲荷山古墳のあと、二子山古墳と同じ時期に造られたことになります。
二子山古墳は埼玉古墳群中最大の前方後円墳ですが、相前後して日本最大の円墳が造られたわけです。丸墓山古墳に盛り上げられた土の量は二子山古墳より多いという試算(しさん)もあります。
このように、最大級の丸墓山古墳が、前方後円墳が連続していく埼玉古墳群の中に、なぜ円墳という形で現れたのか、そして二子山古墳との関係は。謎のむこうに歴史のドラマが秘められているかもしれません。
ところで丸墓山古墳は、その後思わぬ形で歴史の舞台となります。
豊臣秀吉が天下統一を進める1590年、家臣の石田三成は、秀吉の備中高松城水攻めにならい忍城を水攻めにします。その際、城がよくみえるこの古墳の上に陣を張ったのです。
現在駐車場から古墳へと続く道は、その際築かれた堤防の跡といわれています。いわゆる「石田堤」です。
水攻めは結局失敗しましたが、三成はどのような光景を見つめていたのか、古墳の上でそんな想像をしてみてはいかがでしょう。 |
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| 丸墓山古墳 |
丸墓山古墳からの眺め |
| 丸墓山古墳は登れます。 |
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